イエス・キリスト、その人
皆さんこんにちは!天照です!
前回はファティマ第三の秘密について考察させて頂きました。そこで今回はファティマ第三の秘密を伝えた聖母マリアがイエス・キリストの母であることから、イエス・キリストの人生とその意味を理解することでファティマ第三の秘密の核心に迫ってみようと思います。
イエス・キリストは今から2000年以上前、パレスチナのベツヘレムで誕生しました。当時のベツヘレムではユダヤ教という宗教が信仰されており、イエス自身もユダヤ教徒の一人でした。当時のユダヤ教では、唯一の神ヤハウェとそのヤハウェとの契約である律法を守ることで救われると考えられていました。そして、ユダヤ教のファリサイ派という宗派の人達は、この律法を厳密に守ることを人々に強要しました。しかしながら、あまりにも多くの律法を厳密に守っていくことは人々にとっては辛く苦しいもので、人々は次第に「守ってさえすれば良い」と考えていくようになりました。
イエスはこのファリサイ派の考え方を、形式的律法主義であると批判しました。律法を守るという行為以前の精神的なスタンスを問題にし、「律法を守ろうとする時の神への忠実な精神を大切にしよう」と考えたのです。そして、律法を守ることよりももっと大切なことがあるとイエスは考えたのです。それは、自分を愛するように隣人を愛すること、隣人愛の教えをイエスは説いたのです。ここでいう隣人とは単に文字通りの意味の隣人のみではなく、人生で出会う全ての人、さらには地球上の全ての人類のことを意味します。この愛の教えは当時のユダヤ教の教えにはない、新しい概念でした。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」
そして、イエスは自分の敵までをも愛するように教えたのです。
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」
イエスは今までのファリサイ派の立場からすれば非難されるべき人、罪を犯してしまった人を赦す教えを説いていきました。
こうしたイエスの考え、行動をファリサイ派の人達は危険視し、イエスをローマ帝国への反逆者であると判断し、ローマの総督ピラトに十字架にかけるよう要請しました。ピラトは、イエスがローマの法律に照らして明らかな罪を犯していないことを知っていたのですが、これ以上騒ぎが大きくなることを恐れたピラトはイエスの十字架の処刑を認めてしまいます。こうしてイエスは十字架にかけられ死んでしまいます。
ところが、イエスの死後三日目、イエスは復活するのです。当時のユダヤ教には自分たちを救ってくれるメシア(救世主)が現れるという教えがありました。そして、このイエスの十字架の死と復活を目撃したイエスの弟子とその集団に
「イエスこそがまさにそのメシアであった。イエスは自分が十字架にかけられることによって私たちを罪から救い、復活することによって私たちを死から救って下さったのだ」
と考える人々が現れるようになりました。
これがイエスがキリスト=救世主であるとされることになる出来事であり、現在まで続く世界最大宗教のキリスト教の成立経緯になります。
ここまでは誰もが知る一般的なイエスの人生になりますが、いくつか天照の考えを伝えたいと思います。
それは、イエスの十字架による死が人々を罪から救う贖罪であったとするのは天照は違うと思っています。イエスは飽くまで、律法を守れない弱い立場の人々が犯してしまった罪とされる行為を罪に問わず赦すことを教えたのであって、そのために自分が十字架にかけられることは全く想定していなかったでしょう。むしろイエスの立場からすれば、自分を十字架にかけ処刑したファリサイ派とピラトの方こそが罪を犯していなくても立派な罪人なのです。
そして、イエスの十字架の死と復活は、結果的にはキリスト教を誕生させることになりましたが、キリスト教を作ったのは後世の人間であり、イエス自身はキリスト教という宗教を作りたかった訳ではなかったでしょう。確かにイエスはユダヤ教の律法を守れない人々を救おうとしましたが、それ以上にもっと本質的に人々を救おうとしたと思います。
つまりイエスは罪の概念を「律法を守っていないこと」から「神を愛さないこと、隣人を愛さないこと」に、もっと言えば「律法を守っていない人を処罰すること」それ自体こそがまさに罪であると、罪の概念それ自体を変えたかったのだと思います。そして、「神を愛すること、隣人を愛すること」によって人々の精神を本質的に救おうとした。そして、人々を救おうとしたイエスをファリサイ派の人々は十字架にかけてしまいましたが、彼らはイエスを十字架にかけてはいけなかった。もっとイエスの立場にたって話し合うべきだったでしょう。そういう意味で、イエスを十字架にかけたファリサイ派の人々やピラトは確かに罪人であり、彼らの罪は律法を守らないことよりももっと重いものであるといえるでしょう。
以上がイエスの十字架の死と復活に関する天照の見解になります。
そして、イエス・キリストの人生とその意味を理解することによってファティマ第三の秘密の核心に迫ることが出来るのですが、それについてはまた別の記事で考察させて頂きたいと思います。
それでは今回はイエス・キリストの人生と彼が本当にしたかったことについて考察させて頂きました。
天照でした~!